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2008年 4月 | 3月

2008.4.24 [木] 9:53 pm

直前ながらキーワードを更新。言い回しとしてわかりやすくなったと思う。

2008.4.23 [水] 休憩

制作時間も残すことろあとわずか、狂ったように制作しつづけている。われながらほんとにクレイジーだ。朝起きてから寝るまでドラムソロを延々やってるかんじ?聴いてる者がいようがいまいがそんなのカンケーねえってやつ(笑)。

日記に書きたいことも山のようにあったのだが、当然のことながら、「文章書いてるヒマあったら絵を描く」モードで来たわけなので、まあ、展覧会が終わったら書くかも。いや、これが終わったら、自分のホームページつくるのだ!

2008.4.9 [水] 近代美術館

海への散歩のついでに近美に行く。『百花繚乱の絵画』と題された日本近現代絵画のコレクション展。一万点にものぼる収蔵作品のなかからよりすぐりの絵画を、とのこと。ずばっと超おおざっぱな印象だけ。篠原有司男の絵がダントツでよかった。昔、予備校の日本画の先生に目が腐るから篠原有司男の絵なんて見るなと言われたことがあるが、今回いちばんまともに見えた。いや、もちろんマトモじゃない、原色と安っぽいラメ使いまくりのむっちゃくちゃな絵なんだけれど、つきぬけかたがダントツで気持ちよかった。あっぱれ爽快なぶっちぎり。しっちゃかめっちゃかだけど、芯が醒めてる。篠原有司男はCOOLだ。あと印象に残ったのは、牛島憲之の絵。たしか「タンク』と題されていた。篠原有司男とは対極的なじっくりコトコト煮込まれた静謐な画面。でもどちらも「ギューちゃん」だな。というオチ。

コメント
08/4/23 ぬほりん
ああ、牛丼展まだ観てないや。(´-ω-`)
08/4/24 nas
一瞬そういう展覧会をどこかでやってるのかと思ってしまいました(笑)。奥村土牛を加えてギューちゃんトリオ展、、、なんて。

2008.4.7 [月] 虫歯日記(苦笑)

今日歯医者に行ったところ、未治療の歯が痛んでいるというのは大いなる勘違いで、まさに治療した歯が激痛を起こしていたのであった。具体的には右下の奥歯、虫歯の進行がかなり激しく、神経に触る寸止めのところまで来ていたのだが、神経には触らず、詰め物をして様子を見ましょうというのが前回までのあらすじ。ところが、その神経が死滅しつつあり、充血しながら炎症を起こし、それが激痛を引き起こしていたのであった。歯痛というより、もはや頭痛であった。それで、今日は神経除去をおこなったのだが、一時間ゆうにかかるデリケートな難作業で、むろん麻酔をかけながらやるのだけれど、これがときおり、信じがたいほどの痛みを伴う。瞬間的に、いまだかつて経験したことのない鋭い激痛が走るのだ。5秒くらい続いたら気絶しそうな痛み。終わったあとは、放心。助手嬢に「大丈夫ですか?」と声をかけられるも、「ボーゼン、、」とひとこと答えるのがやっと。また、笑われる。明日も来てくださいといわれ、横須賀通いは当分つづきそうだ。

しかし、横須賀は濃いな。コーヒーショップに入ると、なぜか必ず年のいった水商売系の女性がふたりで煙草ふかしながら、人生四方山話をしているというシチュエーションにぶつかる。
あと、文具かわしまの三階の画材のフロアが侮れないものであることを発見。面相筆を買う。

コメント
08/4/8 ぬほりん
想像するだに、いや、想像したくないっす。Σ( ̄□ ̄;)
nas
「痛い」ということにかんして、世の中にはもっと凄いのが当然いくらでもあるんでしょうけれど(それこそ、想像したくないっす)、今回のは自分的には人生最大級のものでした。歯の痛みのあのメーターが振り切れたような凶暴なかんじは、脳がすぐそこだからってことなのかなあ、、。

2008.4.6 [日] ハガイタイ

そう、歯が痛い。ああ、やっと道路拡張工事のドリル音もおさまって来たなとおもいきや、今度は自分の未治療の虫歯が激震である。頭蓋骨ごと痛い。工事のドリル音が「まじでうるさい」ということであったとすれば、いまの歯痛は「まじで痛い」というやつである。


べつに同情を買おうというのではないのだが、なかなか人生、なにも問題ないニュートラルな状態というのはないな、と。明日が歯医者の予約日であることが救いだ。

ちなみに制作はじりじりと進んでいる。

コメント
08/4/7 ぬほりん
誰かを羽交い締めしたいのかと思いました。(笑)
歯が痛いのはつらいですよね。オイラはここ10年以上は歯医者に行ったことがないくらい大丈夫ですが。
nas
ご愛読ありがとうございます。そう、だれかを羽交い締めにしたいくらい、痛いです。分けてあげたい、この痛み(笑)。僕も、もともと骨とか歯は丈夫なタチで、虫歯で苦しんでる人を見ては、鼻でせせら笑ってたんですけどね、、。

2008.3.27 [木] 日記

今日は、朝8時半に例によって電気ドリルの音で目が覚め、いったん起きたんだけど、ゆうべ遅かったため結局二度寝。昼前に起き、いかんっ、こんな時間かっということで、バタバタと予定通り、木古庭の高橋さんちに赤ちゃんを見に行き、すっかりなごみつつ、ふと時計を見ると、カットの予約の時間がっというわけで、またバタバタと横須賀に向かい、カットを終え、遅い昼飯を食うも、そうこうするうち次の歯医者の予約の時間っというわけで、おなじ横須賀の歯科へ。虫歯の治療。助手にこないだつめた仮止めがとれてますよ、といわれ、いやあ、ぜんぜん気がつきませんでしたというと、気がつきませんでした?wと笑われる。今日はカタをつめただけなので、痛くなかった。前々回、削ったときは、帰りに麻酔が切れたとたん、その場(図書館にいた)で、のたうちまわりたいほど痛かったけど。で、帰って来たら夜。
そんなこんなで、今日は制作はまったく進まず。まあ、そんな日もあるさ。

コメント
08/3/28 ぬほりん
そんな日もあるある。てか、そんな日ばかり。(笑)
nas
葉山はね、マモノなのよ。(懐かしのインターネットラヂオnusicより)(違)

2008.3.26 [水] うるさい日本の私

という本がある。哲学者(カント研究者)、中島義道の、現代日本社会の音害垂れ流し状況を容赦なく告発した本だ。「うるさい葉山の私」というのは、そのタイトルのパロディである。「うるさい日本の私」というタイトルは、判る人はすぐ判ると思うが、大江健三郎の「あいまいな日本の私」のパロディである。
それはともかく、『うるさい日本の私』の告発の対象となっているのは、主に日本社会のいたるところに横溢する音声テープの機械音および機械音的応対である。つまり、駅のアナウンス、バスの中、銀行のキャッシュディスペンサー、自動販売機、コンビニ、ファーストフードショップなどなどで、むやみに繰り返される「無意味な」マニュアル指示および応対の「音」である。「ああせい、こーせい」「ああしてはなりません、こうしてはなりません」「いらっしゃいませ、こんにちは、ポテトもご一緒にいかかがでしょうか」etc,etc.といった「小さな親切」的アナウンスにたいして、「うるさい!!!大きなお世話だ!!!!」と吠え、その文化の深層を容赦なくえぐり出す本なのであった。

つづく(たぶん)

2008.3.26 [水] メモ

観察にはエゴをなくす必要があり、創造にはエゴが必要

とはある本からの一節。端的に(というか端的に言えば)そのとおりだ。事物の観察に自我の主張は邪魔である。しかし、創造表現には自我はなくてはならない。

以下おりをみて捕捉予定

観察には自我を前提とした無我が要り、創造表現には無我に向かう自我が要る

といえるかもしれない。
画とは、我である。とよく思う。我がなければ絵は描かれない。
自我とかエゴとかというのは、じっさい日本人には判りにくいコトバのように思う。「我」といえば、わかりやすい。「我を通す」「我を張るな」etc. 自我やエゴというコトバが日本人にわかりづらいのは、そこにキリスト教信仰が前提となるから。だから、自我と無我といったとき、キリスト教と禅がごっちゃになって、ややこしいものになる。

「自然」や「芸術」というのもそうだ。たぶん。

2008.3.26 [水] 静けさや

道路工事の昼休み

というわけで、ただ今、12時台。あたりはほおずりしたくなるような静かさである。

コメント ▽最近の3件 [全4件を表示]
08/3/26 nas
いいっすね。
ということで、合掌(なんのこっちゃ)
08/3/27 ぬほりん
いかん!! 季語がないっ!! (さらになんのこっちゃ)
08/3/28 nas
いやあ、すっかり忘れてましたな!(なにがなんだか、、)

2008.3.25 [火] 日記---うるさい葉山の私

今日も近所の道路拡張(?)工事の音が素晴らしくうるさい。この一ヶ月毎日である。朝から晩まで、日曜までやってやがる。大規模な下水道工事が終わったとおもったのもつかのまだった。この十年、電気ドリルと電ノコの轟音が近所でしていない日は稀である。北側の工事にくわえ、ちょっとまえは向かいの駐車場のアスファルト整備と南側の家の改装工事の電気ドリル同時三点攻めで、悶絶(笑)。というか気が狂いそうだった。
いま日本一工事の音がうるさい町、それは葉山。よくわかんないけど、そういいたい気さえする。

2008.3.24 [月] 4:21 pm

実際、Painting(塗ること)において、見えてくることがある。ある面に対して、人工的に色を付着させるというのは、呪術的な行為であり、それは長らく宗教と不可分であった。または権勢と不可分であった。そのことが実感的に見えてくる。そういえばカリシュウさんはけっして面を色で塗ろうとしない。ずっとまえ、カリシュウさんにどうして色を使わないのか(面を塗らないのか)きいたところ、それは魔の道だからというようなことを言っていた。あんまり記憶が定かではないが。

写真の絵は制作途中。

コメント
08/3/24 ぬほりん
なかなかすごいペースで日記更新されていきますにゃあ。
08/3/25 nas
これも一環ですから。

2008.3.24 [月] 3:22 pm

材料研究は欠かせない。けれども、あんまり画材研究にのめり込むと、「描く」ことが遠のいてゆく。赤の絵の具がなかったら、青で塗るまでだ、というようなことをピカソが言っていたが、材料への無頓着への典型ともいえる。(ピカソは色彩画家ではないということでもあるが)とにかくなんであれ絵が描ければいい、というのがピカソ的行き方と極論するとして、けっこうそこに共感できるものがある。
主題をおざなりにして画材研究を進めると、画材マニアみたいになってゆく。だが、油彩の開発者ファン・アイク兄弟は材料にかんしおそろしくマニアックであっただろうが、その絵はおそろしく見事だ。彼らには敬虔な信仰があったから?すくなくとも彼らにとっては描くべき主題ははっきりしていた。

2008.3.24 [月] アクリリック2

今回、支持体は廃物を利用しているので、その点はエコロジカルといえなくはないけど、アクリル絵の具はエコロジカルな素材ではない。透明水彩の方がよほどエコロジカルだ。エコロジーという点で言うと、手漉きの和紙に墨というのが、もっともエコロジカルかもしれない。もっとエコロジカルなのは「描かない」ということだ。微妙な問題。

絵と言うのはどのみち「反自然」的なものだ。とはいえ、そこに胡座をかいているわけにもいかない。芸術の民主化に際しては---つまり趣味で絵を描く人が膨大にいるということ---水彩絵の具というのは、エコロジーの観点から言って、わるくないものだ。つねづね思うけれど、油絵なんてシロートが趣味でやるものじゃない。あれは限られた厳しい修行僧的世界のものだ。

2008.3.24 [月] アクリリック

アクリル絵の具はベタな意味で、筆の扱いがむずかしい。筆に含んだ絵の具はどんどん乾いて行ってしまう。水彩ならそれは気にしなくてもいいことだけど、アクリルの場合、筆は一度乾いたら取り返しがつかない。だから筆洗につけっぱなしにしておくことになるが、そうすると穂先が駄目になる。今使っているホルベイン製のナイロンのリセーブル・ブラシは、腰がなく、やっている絵にあんまり向いてない。もっと硬質なナイロンブラシか、豚毛に替える必要がある。

2008.3.24 [月] 制作中

背後の壁に貼ってあるのはテリー・フロスト。ピーター・ラニヨンとともにずっと気になっているイギリスの抽象画家。セント・アイヴスの海辺の画家たち。

2008.3.24 [月] 0:59 am

これ基本的に自分用ノートなんで、消したくなったときは、遠慮なく削除します。どんどん編集します。あと、制作メモ&雑記なんで、色んな意味で難解になってくる可能性があります(というか、関心の対象/固有名詞をいちいちわかるように説明しないので)。読んでいるかたがいたら、よろしく。

2008.3.23 [日] ファンキーペインティングス

今回の隠れテーマは、「ファンキー」。じつはタイトルをファンキーペインティングスにしようかと思ってたくらい。
ファンキーペインティングスってなんだ?って考えると、これは終局的には自分のアブストラクト(抽象絵画)に対する感覚に行き着く。
ジェイムス・ブラウンを描いて、ファンキーペインティングっていうのがひとつのありかたとしてある。私はそこには一貫して、興味がない。対象および主題がファンキーだからファンキーペインティングというのは、低能だ。
しばらくまえ、ファンキーおよびファンクについて考えを巡らしていた。まあ、音楽としてファンキーおよびファンクっていったら、ジェイムス・ブラウンなのだ。いろいろあるが結局はそこに行く。
自分の定義でいうと、ファンキーというのは、たんなる「泥臭さ」のことではない。鍵はJB'sだ。JB'sくらい抑制の利いた(禁欲的な)バンドがあるだろうか?JB'Sは知性的-理性的だ。その逆説がファンクなのだ。JBの雄叫びを支える強靭なクールネス。それがファンクだ。怜悧なんである。
JBを描くのではなく、JB’sのように描く。それがテーマ?

コメント
08/3/23 ぬほりん
さらにその逆の位置に「ファック」があるよね。(嘘)
nas
シャラーーーップ!(笑)ていうか、核心突いてたりして?
nas
あと、ヤザワっていうのがあるんだよね。日本で日本人がファンキーを探究しようとすると立ちふさがる巨大な壁として。

2008.3.23 [日] アクリルペインティング

こんな日記、ぬほりんさん以外だれも読むまい。ということで、自由で気楽な制作メモがわりにつかうことにした。ポストイット・ノートみたいなもの。落書き帳。

今回のささやかな個展にむけて、画材はアクリル絵の具を使っている。世界堂でターレンスAMSTERDAMのプライマリーカラーを買って来た。
目をつぶっていても描ける(?)使い慣れた水彩とは、かなり勝手が違う。筆はこれまた使い慣れないナイロン製を使っているが、油彩の豚毛筆のつもりでゴシゴシやって、一本だめにしてしまった。ショック。
なぜアクリルかと言うと、額装しなければならない絵はやめようということと、ペインティングがやりたかったからということに尽きる。
だいたい、watercolor paintingとはいうものの、透明水彩で描くことをペインティングと呼ぶことには、どうしても違和感がつきまとう。もちろん"watercolor painting"は、まちがいではありえないが、主観的には、paintingの醍醐味は被膜性にある。
被膜性。たぶんティツィアーノあたりからはじまった被膜性への着目。それは近代絵画の要点である造形の自由性、自己表現性を保証する。描きながら絵を大きく変えて行けるという油彩独特の特質は当然、アクリルに受け継がれているわけで、その点が楽しいわけだ。私にとってペインティングというのは。

コメント
08/3/23 ぬほりん
ふふふ、読んでたりして。
08/3/24 nas
読まれてたりして。
ということで、冒頭を編集。

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